本記事は、Webrain Think Tank LLC, Co-Founder and EVP マサ岩崎氏が登壇したJMA GARAGEオンラインイベント「【世界のDXトレンド】五感のデジタル化に挑戦する世界の企業~IoTセンサーが牽引する香り・匂い・嗅覚テクノロジーの最前線~」のイベントレポートです。
IoTやAIといった分野では、機器などから得られた情報を分析・学習して有効活用していくといった目的でのシステム構築が現在さかんに行われています。
その中でも人間の五感、つまり視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚のデジタル化は、これからの大きなトレンドになってきており様々な研究が進められています。そしてそこから得られたデータを分析して新たな知見を得ることに、世界のあらゆる企業が方法論を模索しています。
特に嗅覚の分野は、五感の中でもデジタル化が遅れていると言われ、故に、「IoTセンサーの中でも最後のフロンティア」とみられています。
匂いに関するビジネスは食品分野から医療、環境、セキュリティー、化粧品など様々な分野への展開がされてきており、5GとIoTの動きと重なり、今後あらゆる産業にまたがる可能性が出てきています。
この「嗅覚」と「香り」というテーマから、DXトレンドの最前線を紹介します。
デジタル×嗅覚で見た新市場のヒント
本日は「デジタル×嗅覚」の新しい市場の展望、主に海外の事例を中心に話したいと思います。日本企業がコロナ禍、アフターコロナも含めてどこで勝負していくのか、また勝負のポイントも変わってきていることを感じとってもらえたら嬉しく思います。
日本はセンサーに関して技術的な強みをもっていますが、どうしてもプロダクトアウトであり、そこから離れられないようです。テクノロジーが重要なのは変わりませんが、グローバルで見た場合、それだけでは勝てなくなっています。
1908年に出現したT型フォードは、1913年にはニューヨークの街を一瞬にして馬車からT型フォードに変えました。香りの世界もプロダクトの良さだけでなく、全体の顧客視点、ホリスティックな体験に創造することができれば、一瞬にしてグローバルのマーケティングに出ていけるのではないでしょうか。
マーケティングでの活用
エリクソンの2030年の予測(※1)では、10人に7人がVRの世界は完全にリアルに見えるようになると回答しており、67%は家族を騙せるほど人の声を機械は完全に模倣できると答えています。味覚についてもかなり下地ができています。その中で44%が、香りは2030年までにデジタル化されると回答しています。
香りは最も理解されていない感覚と言われています。例えば、ミツバチや阿呆鳥、鮭は匂いによって獲物を見つけたり、ホームタウンを見つけたりしています。
これまで人間は1万種類を嗅ぎ分けられる(混合臭)と考えられていましたが、1兆種類以上だったことが2014年の研究で判明しています。実際にそれだけの香りがあるわけではないので識別には懐疑的ですが、可能性は出てきているわけです。
また、犬の嗅覚は人間より強いと言われていますが、匂いの種類によっては動物より人間の方が敏感なものがあることもわかっています。例えば、人間はバナナの匂いを犬と同じぐらいに嗅ぎ分けられ、人間の血液に含まれている特定の成分についてはネズミよりも敏感だとされています。
人間の感情の4分の3は匂いから引き起こされているので、嗅覚の影響はとても大きく、他の五感の100倍以上も「記憶」に関係していると言われています。マイセル・プルーストは、著書『失われた時を求めて』(※2)の中に「記憶と匂いは密接」と書いており、これが「プルースト現象」とも呼ばれています。
周囲の状況(コンテキスト)に合わせる必要がある
私たちの暮らしは、私たちの「感覚(器官)」を模倣して開発された技術によって支えられていますが、これまで他の感覚ほど嗅覚に関する研究はされていませんでした。しかし、嗅覚も他の感覚と同様の技術進化をたどる可能性があります。
こうした嗅覚によるマーケティングは10億ドル規模の市場であり、顧客に満足感を与えることで売上げにつながっています。バニラやモロッコ・ローズの香りはアパレルの売上げに貢献し、スターバックスではコーヒーの香りが、映画館ではポップコーンが気持ちを高揚させることがわかっています。またホームセンターLowe’sでは木材の香りが日曜大工の士気を高めているなど、さまざまな事例があります。
しかし大事なのは、周囲の状況(コンテキスト)に合わせる必要があるということです。コンテキストをうまくマッチさせないとネガティブに反応することもあります。香りのマーケティングでは視覚的なサブリミナル広告と同様、見えない匂いで誘導するのは購買意欲を掻き立てるポジティブな面がある一方で、倫理面での危険に注意する必要があるでしょう。
成長するデジタル嗅覚の市場(e-nose)
デジタル嗅覚のマーケットは、2017年には3,200億ドルの規模でしたが、2026年までに3兆1,200億ドルになると予想されています。
e-nose(electric nose)は、匂いに含まれる化学物質を検知し匂いを特定するために利用されるデバイスの総称です。最初に開発されたチップは1993年、腐敗食品の探知を目的として利用されました。現在では小型化、低価格化され、さらにセンサーの精度が上がっており、日本ではMSS(膜型表面応力センサー)に期待が集まっています。
最も小型化されたチップはnose on a chipと呼ばれ、医薬品、毒物研究、産業処理、環境保護、食品加工・製造、軍事、宇宙で利用されています。
匂いは2種類から500種類の化学物質が混合しており、人間の吐息には1,000種以上の分子が、コーヒーの香りには数百種類の分子が混ざり合っています。匂いの分子は複雑であり、色を探知するほど簡単ではありません。
e-noseのセンサーによって受信した匂いのデータは、ニューラルネットワークを使ってさまざまな匂いのデータと比較・特定されます。人間の嗅覚を通って頭の中でニューロンが分析する動きと、データをデジタル処理し、アルゴリズムで学習するフローは基本的に同じです。
においの事例
ここから医療に関する事例を紹介します。
イランのCancer Order Database(COD)には、19種類のがんに関する450種類ものがんの代謝産物(VOMC)が保存されており、無料で研究者に提供されています。
Technion Israel Institute of Technologyの研究グループは、Na Noseと呼ばれるe nose デバイスを開発しています。このデバイスでは患者の息の匂いから17種類の病気を86%の精度で見つけられます。
イスラエルのワイツマン科学研究所では、Covid-19に感染すると嗅覚が消えてしまうことがあるため、スパイスや歯磨き粉などの匂いを記憶させておき、その匂いが感じなくなったら危険だとするサービスを提供しています。
インテルとコーネル大学の研究者らは、ニューロモーフィック・チップ(脳の構造を模したコンピュータチップ)「Loihi」を発表しています。AIに香りを教えることは難しいのですが、Loihiは脳の嗅覚回路に基づいてアルゴリズムを使うことでたった1つのサンプルで匂いを学習しています。
ドイツのKarlsruhe Institute of Technology(KIT)のMartin Sommer教授は、人間よりも迅速に匂いを探知するチップを開発しています。人間の鼻の仕組みをモデルにし400個の臭覚受容体と1,000万個の嗅覚細胞を模倣して作っています。
IBMではSyNAPSEと呼ばれる、人間の脳と同様、触覚、味覚、嗅覚、聴覚を持ったチップを開発しています。最近は話題がないので開発は止まっているかもしれませんが、興味深いのはDARPA(アメリカ国防高等研究計画局)から開発費が出ているプロジェクトだということです。
「ホリスティック」の重要性
だんだん匂いを感じない社会になってきている
今後の課題として、だんだん匂いを感じない社会になってきていることがあげられます。Eコマースの拡大によって自宅でショッピングできるようになり、実店舗で感じられるような嗅覚の刺激がなくなっているのです。特に若い世代になればなるほどその傾向にあります。
さらにビデオ会議の普及によって、対面で会話する機会が減っている中で、私たちの嗅覚が衰えてきていることも考えられます。匂いと記憶力は密接な関係にあるため、長期的な記憶に影響を及ぼすのではないかとの指摘もあります。
匂いの難しさは主観的な性質にあり、事前の説明によっては匂いがガラッと変わることもあります。パルメザンチーズの香りを、事前にパルメザンチーズの香り、一方で吐瀉物の匂いと伝えてから嗅いでもらうのでは正反対の結果になります。
また、文化的な背景によっても異なります。ラベンダーの香りは北米の人々には落ち着きを与えますが、ジャスミンの香りの方が日本人にはリラックス効果があるとされています。
リテールの世界は体験型にしないと売れない時代になっています。香りや音、視覚・触覚的なもの、温度や人混みなどの雰囲気は、買い物客に魅力的で感覚的な体験を生むことで、より長く滞在させ、より良い気分になってもらえます。
しかし、Covid-19で非接触の交流が増え、香りを嗅ぐことも怖がるようになっており、消費者を安心させる衛生面などのディテールが必要になっています。そのため、将来、リテールはセラピーという言葉に変わっていくのではないかと考えられています。
お店に行くことで、またはその製品を使うことでウェルビーイングにつながることが重要になってくるでしょう。
Second Moment of Truthを考える
2020年のCES(Consumer Electronics Show)において、オイシックス・ラ・大地の奥谷氏が「もう1回戻ってもらえる仕組みが大事だ」と発言していました。例えば、新しい歯ブラシを使った場合、最初の体験では「Wow!」と思いますが、20日くらい過ぎると飽きてしまいます。
その時期が充電のタイミングと重なることにより、アプリから磨き残し部分を教えてもらえるとまた使ってみようという気になるでしょう。
これからの時代は、First Moment of Truth(消費者がサービスに関する印象を形成する瞬間)だけではなく、Second Moment of Truth(購入後に実際に商品を使用する瞬間)まで考える必要があるでしょう。
購入後にもデジタルを活用することで、ホリスティックにプロダクトやソフトウェアサービスと連動できるものが、消費者に受け入れられることが予想されます。それがあるかないかがこれからのプロダクトを含めたカギになってくるでしょう。
センサーの研究者の方は、是非ユーザーエクスペリエンス、ホリスティックな体験を想像するところから始めてみてください。全体の体験を高められるのかにフォーカスすることで新しい知見が出てくるでしょう。
最後に私が興味深く感じているのは香道(Kōdō)です。香りによって想像を巡らせる日本人らしい「見立て」の世界です。日本人の豊かな感性に合わせて語彙を結びつけ、皆さんが研究しているセンサーを海外に持っていく。香りをアルファベットで「kaori」と書いて世界に出していく。こうしたことも1つの大きなヒントになるのではないでしょうか。
※2:Proust, M.(1913),À la recherche du temps perdu: Du côté de chez Swann. (プルースト著,高遠弘美訳,2010,失われた時を求めて 1:第一篇「スワン家のほうへⅠ」,光文社)